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Karen Huang ( ゲスト寄稿者 )
創世記5:21-24
エノクは神と共に歩み…… 創世記5:24
ペドロは50歳でイエスを信じました。怒りっぽく、執念深く、やられたらやり返すタイプの人で、人の心を傷つけても平然としていました。しかし、教会にいるカウンセラーと話すうちに過去を悔やむようになって、「もう人生の折り返し地点は過ぎてしまった。残りの人生を有意義なものにしたい。どうすれば良いだろう」と考えるようになりました。
ペドロは、聖書の意外な場所に答えを見つけました。それは系図です。彼は、創世記のアダムの家系の記録に「誰々は○○年生き、そして死んだ」(創5:8、11、14、17、20、27、31)という文面が、繰り返されていると気付きました。ところが、ある人物だけは違います。
その人は「神と共に歩み」と述べられたエノクです(22、24節)。彼は「神に近づく者」(ヘブ11:6)でした。その信仰によって、「神に喜ばれていたことが証明されてい」ました(5節)。彼は神に忠実でした。神の本質を信奉し、神がご自分を求める者に報われると確信していました(6節)。全能の神に対する信仰を、神に対する従順と御心に沿った行動で示しました。神は、そのような信仰の持ち主だったエノクを、肉体の死を通さずに天に引き上げられました(5節)。
ペドロは「どうすれば有意義な人生を送れるのか」と自問し、「神に忠実に歩んでいくことで」と自答しました。
人生は年数だけでは語れません。信仰によって語られる人生があります。それは、神がさまざまな方法で働かれることを受け入れる人生です。
神に忠実なあなたの歩みは、どういう形で表れていますか。神に対する信頼を行動に移して何をしますか。
父よ、人生は一人で歩むようにつくられてはいません。どうか、あなたと共に歩んでいけますように。
エゼキエル書37-39 ; Ⅱペトロ2
https://japanese-odb.org/Pd6
John Blase
Ⅱコリント12:2-10
わたしの身に一つのとげが与えられました。Ⅱコリント12:7
フラナリー・オコナーは、米国南部を代表する小説家の一人で、人の苦しみと神の恩寵(おんちょう)を描いています。15歳で最愛の父を難病で亡くしました。小説を書くことに没頭して傷心に耐え、最初の小説を発表しました。そして父と同じ病を患い、39歳の若さで亡くなりました。彼女の作品には自身の苦悩が色濃く反映されています。作家のアリス・マクダーモットによれば「この病が、彼女を彼女たる作家にした」のです。
使徒パウロは「わたしの身に一つのとげが与えられました」(Ⅱコリ12:7)と語りますが、それが何であったかは分かりません。分かっているのは、それを除いてくださるようにパウロが三度も祈った(8節)、しかし、神はそうなさらなかった(9節)、ということです。「とげ」はパウロを謙虚にさせました。彼自身、「思い上がらないように」(7節)という神の戒めだったと述べています。パウロのとげは、彼の人格を作り上げ、彼を比類なき使徒としました。また、与えられたのは、とげだけではありません。とげと共に、神の恵みやキリストの力も十分に与えられました。だからこそ、使徒は痛みに苛まれつつ宣言したのです。「わたしは弱いときにこそ強い」(10節)と。
それが何であれ「とげ」は、私たちを作ります。自分らしさを形成するといってもよいでしょう。パウロやオコナー、また無名の数々の人が、長い歴史の中で証ししてきました。神の恵みは私に十分だ、と。
あなたにとっての「とげ」は何でしょう。今、神の恵みと神に頂く力は、私に十分だ、と言うためには、どうすればよいでしょう。
愛する神よ、あなたの恵みは私に十分です。
エゼキエル書35-36 ; Ⅱペトロ1
https://japanese-odb.org/Pd5
Karen Pimpo
フィリピ3:1-9
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくたと見なしています。フィリピ3:8
探検家パーシー・フォーセットは、1925年5月29日、妻に最後の手紙を送り、ブラジルの未踏のジャングルに入りました。長年、伝説の古代都市の遺跡を見つけ、世界に知らしめようとしていたのです。しかし、探検隊は消息を絶ち、遺跡は見つからず、彼らの行方を追う数々の探索も失敗しました。
フォーセットは、せっかくの勇気と情熱を見つかることのない「失われた都市」に浪費しました。私たちにも見果てぬ夢があるかもしれません。一方、意志と知性、感情と力、全てを賭ける価値のある確かな宝もあります。
使徒パウロは、それについて「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリ3:8)と語りました。失われた都市は、富や名声、権力をくれたかもしれませんが、イエスを知り、イエスを信頼することとは比べものになりません。成功し権力の座に上る、規則や道徳を守り正しい人と言われる、気配り上手で皆に好かれる、そういう生き方もイエスを知ることに比べられません(6-7節)。満たされないものに時間や労力を費やしていませんか。今、何を追い求めていますか。どうかイエスが、あなたの心の内を探ってくださいますように。
自分の「宝」を認め、イエスを親しく知る価値に思いを凝らすことは、自分の優先順位を見直すのにどう役立ちますか。
主よ、満たしてくれないものを追い求めずともよいことに感謝します。私には、あなたを知っているという宝があるのですから。
エゼキエル書33-34 ; Ⅰペトロ5
https://japanese-odb.org/Pd4
Katara Patton (ゲスト寄稿者)
箴言22:1-6
若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。箴言22:6
ある年の感謝祭に実家に電話して、一番の感謝は何かと、母に尋ねたことがあります。彼女は「3人の子ども全員が、主の御名を呼び求めるとはどういうことか分かっていること」と言いました。母は教育熱心でしたが、彼女にとって、学業優秀だったり、自立した生活を営んだりということ以上に、価値あることがあったのです。
母の気持ちは箴言22章6節を想起させました。「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう」。これは約束ではなく、原理原則と言うべきでしょう。神としっかり向き合うことを一時期、避けてしまう子どもは少なくありません。そういう中でも、私の両親は、我が子が謙虚で敬虔(けいけん)な態度で神を愛するように(4節)、身をもって教えてくれました。そして今、神の恵みによって、大人になった我が子が、神と強く個人的に結びついている姿を見ているのです。キリストのいつくしみ深い教えに素直に応答する子もいれば、神の御声に耳を傾けるまでに時間がかかる子もいます。私たちの役目は、彼らのために祈り、生き方の模範を示し、神の時を信頼して待つことです。
母の感謝の言葉は、人生で最も大切なものを示しています。慎み深く神を愛し敬うことは人生を今もとこしえまでも豊かにします(4節)。子どもの信仰を親が決めることはできませんが、神の愛が彼らの心に働きかけておられます。その希望があるので、私たちの心は平安です。
神の愛を最初に示してくれたのは誰でしたか。あなたは、どのように神を敬い、愛していますか。
神よ、愛と慎みで身近な人の成長を促せるように助けてください。
エゼキエル書30-32 ; Ⅰペトロ4
https://japanese-odb.org/Pd3
Alyson Kieda
エズラ記3:1、4-6、9-11
民も皆、主を賛美し大きな叫び声をあげた。エズラ記3:11
若い頃、聖歌604番「望みも消え行くまでに」が大好きでした。「望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ主の恵み なが心はやすきを得ん」結婚後、落ち込んだ夫に頼まれてこの歌を歌ったことが何度もあります。そういう時は、彼に注がれている恵みを一つずつ一緒に数えました。すると、彼は意識の中心を、自分の問題や自分の能力に対する不信ではなく、神と神に感謝すべきもろもろのことにシフトすることができました。
エズラ記は、神の民が、神の力や支え、導きを頼りに、困難な状況に立ち向かって使命を果たす様子を描いています。ユダヤ人たちは、バビロンで長年、捕囚でしたが、キュロス王に神殿の再建を許可され、エルサレムに戻りました(エズ1-2章)。しかし、帰還したのはごく一部の人(2:64)。彼らは「その地の住民に恐れを抱き」つつも(3:3)、世紀の大事業を前に覚悟を固め、祭壇を再建し、神殿の土台を築きました(10節)。そして「『主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに』と唱和して、主を賛美し、感謝」しました。「主の神殿の基礎が据えられたので、民も皆、主を賛美し大きな叫び声をあげた」のです(3:11)。
もし落胆していたり、高く分厚い壁にぶち当たっていたりするなら、神に心を向けましょう。主の恵みを思い返して数えるならば、主の御業の数々に驚くでしょう。主の御業は、主を愛する人のために、今後も続いていきます。
過去に受けた恵みを数えることは、苦難の中で、どのように役立ちますか。今、何に感謝していますか。
神よ、あなたのご性質と御業の両方に対する感謝と賛美の心を失わないように助けてください。
エゼキエル書27-29 ; Ⅰペトロ3
https://japanese-odb.org/Pd2
Patricia Raybon
サムエル記上7:7-12
今まで、主は我々を助けてくださった…… サムエル記上7:12
若い頃、仕事の締め切りを守れるように、と祈るのは、何か違うと思っていました。家族の病気、家庭の不和、失業、家計のひっ迫など、もっと大きな問題を抱える人たちがいます。私も当事者だったことがありますが、それらに比べると、原稿の締め切りはさまつな問題だと思ったからです。しかし、今は違います。聖書には、事の大小にかかわらず、神が御民を助けた事実がいくつも記録されているからです。
例えば、ペリシテ人がミツパに攻め上ってくると聞いてイスラエルが動揺した話です。イスラエルの人々は、預言者サムエルに「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください」(サム上7:8)と願いました。サムエルは、民の要請に応えて、小羊を神にささげ、彼らの救いのために主に叫びました。すると「主は彼に答えられた」(9節)のです。聖書は次のように語ります。「サムエルが焼き尽くす献(ささ)げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた」(10節)
その後、「サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、『今まで、主は我々を助けてくださった』と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付け」(12節)ました。
神に助けを求めるのは、常に正しい行為です。さあ、主を呼び求めましょう。
神のどんな助けが必要ですか。神を呼び求めることが大切なのはなぜですか。
神よ、私を助けてください。あなたが今、必要なのです。
エゼキエル書24-26 ; Ⅰペトロ2
https://japanese-odb.org/PcZ
Tom Felten(ゲスト寄稿者)
エレミヤ書25:4-11
しかし、お前たちはわたしに従わなかった、と主は言われる。エレミヤ書25:7
米西海岸に住むアリダは2020年にDNA検査を受け、東海岸に住むある男性とかなりの確率で一致していると分かりました。その後、昔の新聞記事から、その男性は行方不明だったアリダの叔父のルイスだと判明しました。彼は1951年、6歳の時に公園で誘拐されて以来、行方不明でした。しかし、二人のDNA検査のおかげで、ルイスは、70年の時を経て、血のつながった親族と再会したのです。アリダは語ります。「私たちの話が世に出ることで、助けられる家族があるかもしれません。どうぞあきらめないで」
70年とは希望の灯を燃やし続けるには長い年月です。「バビロンの王に七十年の間仕える」(エレ25:11)と神に宣告された時、預言者エレミヤもユダの人々も、恐怖に震えたことでしょう。彼らは神に逆らい、「悪の道と悪事」(5節)から立ち返りませんでした。それ故に、「人の驚くところ、嘲(あざけ)るところ」(9節)となったのです。ユダの人々は、エレミヤ書の中で30回以上も反逆の罪を糾弾されています。70年は、気の遠くなるような年月かもしれません。しかし、神は、彼らと共にいる、そして、苦難の時代はいずれ終わる、と約束されました(29:10)。
困難の中にいると、その状況がずっと続くように感じます。神に対する私たちの信頼が揺らぐときでさえ、神の約束は変わりません。主の臨在と救いは私たちのものです(30:11)。神の御言葉に耳を傾け、期待して待つなら、希望を失うことはありません。
あなたには困難を乗り切る秘訣(ひけつ)がありますか。あなたは神の約束の何に慰めを感じますか。
神よ、あなたに希望があると心から言えるように助けてください。
エゼキエル書22-23 ; Ⅰペトロ1
https://japanese-odb.org/PcY
Mike Wittmer
マルコ5:1-6、12-13、18-20
イエスは……こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐(あわ)れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」 マルコ5:19
マリオは住居侵入と窃盗の罪で服役中の28歳。アルコールと薬物依存症で、裁判官に無駄な人生と言われても反論できませんでした。ところが服役中、ジャーナリズム・コンテストの広告がきっかけで通信制大学に入ると、記事の執筆に夢中になりました。服役後は、大学院で修士号を修得し、今ではニューヨークタイムズ紙に執筆しています。もう無駄な人生を送ってはいません。
悪霊に取りつかれ、墓場で暮らしていた男性は、何のために生きているのかと思っていたかもしれません。自他ともに危害を及ぼさないよう縛られていましたが、「鎖を引きちぎり足枷(かせ)は砕いてしまい」ました(マコ5:4)。彼は墓場で「昼も夜も……叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしてい」ました(5節)。しかし、イエスは悪霊を払い、社会生活を可能にされました。町の人々は彼が「服を着、正気になって座っているのを見て」(15節)畏怖の念を抱きました。
その人は感謝して、イエスのお供をしたいと願いましたが、主は許可されず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(19節)と言われました。
この人の使命は、私たちの使命です。あなたは主に何をしていただきましたか。そのことを告げ知らせましょう。主と共にあれば、無駄な人生などあり得ません。
イエスはあなたを何から救ってくださいましたか。主に救われなかったら、自分はどうなっていたと思いますか。
父よ、あなたにとって無限の価値がある私の人生を感謝します。
エゼキエル書20-21 ; ヤコブ5
https://japanese-odb.org/PcX
Sheridan Voysey
ヨハネ12:1-8
マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。ヨハネ12:3
父は母に一目ぼれしました。そして、彼女に会うために呼ばれてもいないパーティーに押しかけたり、自分でパーティーを開いたりしました。やっとデートにこぎつけると宝物の愛車でドライブしました。こうして二人は恋人になりましたが、一つ問題がありました。母は宣教師としてペルーに行くところだったのです。父は彼女を車で空港まで送り、その5カ月後、自身もペルーに行き、求婚しました。しかし、最高なのは裏話です。父は渡航費用のために愛車を売ったのです。
マルタとラザロの姉妹にマリアという女性がいました。彼女の最も大切な宝物は「高価な……香油」(ヨハ12:3)だったでしょう。マリアは主のための食事の席で(2節)、その香油をイエスの足に惜しげもなく注いだのです。もし私たちがそこにいたなら、マリアにとって、主がいかに大切なお方だったかを即座に悟ったでしょう。
父が車を手放したことは、母にすれば、彼にとって自分がどれほど大切な存在かを表していました。一方、マリアの行動には、それに加えて、秘められた深淵な意味もありました。イエスの葬りの準備です(7節)。
マリアのように、唯一無二の宝物を神に差し出すなら、それは主の尊い犠牲の反映です。私たちは、その時、神のあがないの御業に参加しているのです。
あなたにとって唯一無二の宝物とは何でしょう。それを神にささげられますか。自分の行為の深い意味をイエスに示されたとしたら、あなたはどう感じますか。
イエスよ、あなたは、私にとって、どんなに高価で貴重な宝物より、ずっと価値のあるお方です。今月のトピック:神を礼拝するとは?
エゼキエル書18-19 ; ヤコブ4
https://japanese-odb.org/PcW
Nancy Gavilanes
詩編121編
どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。詩編121:3
インドネシア上空で、パイロットが眠ってしまいました。飛行機が巡航高度に達した後、機長は許可されている仮眠を取ったのですが、彼が目覚めると副操縦士も眠っていました。乗客乗員150人以上を乗せた飛行機は、約30分間、誰にも見守られず、上空約1万メートルを航行しました。しかし感謝なことに、何事もありませんでした。
操縦士は人間なので居眠りするかもしれませんが、神は違います。
詩編121編の御言葉が安心をくれます。この詩編、全8節は、遍在する全知全能の神を想起させます。つまり、私たちの全てを知り、常に共にいて、どんなことからも守ってくださるお方という意味です。この詩人は、助けは神から来ると語ります(2節)。神は、私たちを陰のように覆って守られます(5節)。私たちをすべての災いから遠ざけ、その魂を見守られます(7節)。神が疲れることはありません。
詩人は「主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように」(3節)、「あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように」(8節)と語ります。そして、「今も、そしてとこしえに」と結んでいます(8節)。
忘れられてしまったように感じるときでも、神はかじ取りをしておられます。決してまどろまず、私たちを見守っておられます。だから安心して憩うことができるのです。
神は眠っておられるようだ、と思う理由は何ですか。あなたの状況や心の動きに、神は常に敏感です。そのことを知ると、どのように慰められますか。
全能の神よ、私を常に見守っていてくださり、ありがとうございます。
エゼキエル書16-17 ; ヤコブ3
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Elisa Morgan
ローマ12:3-8
自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。ローマ12:3
自分は見かけほど有能ではないと感じ、それがいつかバレてしまうと不安。そんなことはありませんか。実は、そういう人は多いのです。1970年代の終わり頃、二人の研究者がこの心理を「ペテン師症候群」と名付けました。社会的に認められた優秀な人でさえ自分の至らなさに苦しみます。本当の自分を知ったら、相手はひどく幻滅するだろうと心配するのです。
使徒パウロは、ローマの初代教会の人々に「自分を過大評価してはなりません。むしろ……慎み深く評価すべきです」(ロマ12:3)と、語りました。自分を買いかぶってはいけません。しかし、正当な価値まで否定するのは行き過ぎです。自己卑下は神に賜った才能の活用を妨げ、それを通して人々が受ける恵みを奪うことです。慎み深く評価するとは、自分の能力を状況に応じて健全に計ることです。パウロは「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて」(3節)と語り、自己承認をちゅうちょする気持ちを乗り越えて等身大の自分を認めるように促しています。キリストの体は、このようにして建て上げられるのです(4-8節)。
ペテン師症候群に冒されてはいけません。今の自分にあるものが神の賜物です。それを正当に認め感謝して用いるなら、自分を過大にも過小にも評価しません。そうするなら、父なる神が喜ばれます。キリストの体も建て上げられます。
どんなとき、「ペテン師症候群」に悩まされますか。どのような神の恵みで、それを克服できますか。
神よ。あなたの目で自分を見ることができますように。私に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて。
エゼキエル書14-15 ; ヤコブ2
https://japanese-odb.org/PcT
Leslie Koh
詩編6:5-11
主はわたしの嘆きを聞き 主はわたしの祈りを受け入れてくださる。詩編6:10
フリーランスの仕事は、うまくいっていませんでした。クライアントが無理難題を押し付けるのでイライラし、やる気を失ってしまいました。手を引こうかとも思いましたが、そうすれば、既に仕上げた分の報酬はもらえず、将来の取引先を一つ失うことになるでしょう。その時、ふと気付きました。神にまだ祈っていなかったのです。
「肝心なことを忘れているじゃないか」と自分にツッコミを入れたい気分でした。そこで祈ると、すぐに気持ちが軽くなりました。状況は何も変わらず大変でしたが、平安のベールに包まれたように感じました。神のみもとで落ち着けばよいのです。自分にできることをして、結果は、神に任せるだけです。
ダビデが不安と恐れを神に委ねた時もこのように感じたのでしょう。詩編6編は、敵に追われる恐れや苦悩の告白で始まります(4、8節)。しかし、神に助けを求める祈りを繰り返すうちに、「主はわたしの嘆きを聞き 主はわたしの祈りを受け入れてくださる」(10節)との確信に至りました。神の時に神の方法で解放されるという、希望を伴った真理が、彼の心に届いたのです。
祈りは気休めではありません。全知全能なるお方と直につながる行為です。このお方が、御心の時に御心の方法で助けてくださいます。
もし落ち込んだりやる気がそがれたりしているなら、今の気持ちを神に伝えましょう。神は耳を傾けてくださいます。
どうすれば、自分の悩みや心配ごとを、神に相談することを忘れないようにできるでしょう。
神よ。助けを求める私の祈りをしっかり聞いてくださり感謝します。あなたの全能の愛の御手に全てを委ねられると知っています。あなたの平安を与えてください。
エゼキエル書11-13 ; ヤコブ1
https://japanese-odb.org/PcS
Monica La Rose
Ⅱテモテ2:8-13
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。Ⅱテモテ2:11
医師のンティジミラは、看取りの医療を母国ルワンダの貧困地域で行いなさいと、神に言われたように感じました。同僚たちは、あの場所で終末期医療をする価値はない、「彼らはすでに希望のない人たちだから」と言いました。しかし、患者とその家族にとっては、彼の存在自体が希望でした。ンティジミラは、イエスの死と命が、死生観を変えると確信していました。主の死が真の命の源だからです。彼の活動は、この確信を土台にしていました。
使徒パウロは、イエスが「死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださ」(Ⅱテモ1:10)ったので、災難の受け止め方が変わったと証しして、処刑が想定される身でありながら(2:9)、ゆるぎない忠誠心で福音宣教を続けました(2:10)。その理由は復活に対する信仰です。なぜなら「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる」(2:11-12)からです。
キリストと共に死ぬとは、最期の時、イエスが傍らにいてくださる、というだけのことではありません。パウロは、バプテスマが象徴するように、イエスの死と復活の命の内に、キリスト者は、キリストの霊と一つになると説明しています(ロマ6:4-8)。キリストが私たちの内に生きておられるので、恐ろしい死に直面しても、イエスのために生き、イエスの証し人になることができます。
最悪だと思う状況で「希望を見た」という経験がありますか。キリスト者は、どうやってキリストの復活を証しできるでしょう。
憐(あわ)れみの神よ。イエスの愛と希望の証し人にならせてください。
エゼキエル書8-10 ; ヘブライ13
https://japanese-odb.org/PcR
Marvin Williams
箴言12:21-28
心配は人をうなだれさせる。親切な言葉は人を喜ばせる。箴言12:25
人生が8分で変えられるでしょうか。無縁社会とさえいわれる今の世の中ですが、作家のジャンシー・ダンは、「8分の電話」を提唱します。こんな短時間でも電話で会話していれば、家族や友人と疎遠にならずに済むと言います。週に2、3回、数分の会話を電話ですると、うつや孤立感、不安が軽減される、という研究結果もあります。また人間関係における小さな調整が、自分や相手の幸福感に大きな影響を与えるという別の専門家の研究もダンは引用しています。
これは、箴言12章25節「心配は人をうなだれさせる。親切な言葉は人を喜ばせる」に沿った考察です。この心配とは幸福を脅かすものに対する感情的な反応です。将来の恐れや不安も心配の種です。キリスト者にとって、温かい励ましの言葉を語って相手の心配を希望に変えるのは、命につながる「慈善の道」(28節)です。こういう言葉は、道案内人となるような正しい友を選ぶ助けにもなります(26節)。
聖書が勧めるように「思慮深い」「親切な言葉」で励ますべき人はいませんか。電話をかけるべき人を示してくださるように神に祈りましょう。短い電話という素朴な行動が、重荷を軽減したり、明るい一日を提供したり、希望や癒やしをもたらすかもしれません。
聖書を土台にした希望の言葉を、今、どうやって人に語りますか。不安な人にキリストの希望を語ることが大切なのはなぜでしょう。
イエスよ。独りぼっちで不安な人にどうか親切と希望に満ちた言葉を語らせてください。
エゼキエル書5-7 ; ヘブライ12
https://japanese-odb.org/PcQ
James Banks
ルカ14:25-35
十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。ルカ14:28
地元の人に「どこにもたどり着かない道」と呼ばれているのは、地図上に「湖水周遊道」と表記されているフォンタナ湖を見下ろす10キロメートルほどの道です。ノースカロライナ州ブライソン市にほど近いグレート・スモーキー山脈国立公園にありますが、花こう岩の山腹を貫く約400mのトンネルを抜けると途絶えてしまいます。政府は大金をつぎこんで周遊道を通そうとしましたが、生態系への悪影響が懸念されてプロジェクトが頓挫しました。
かつて大工だったイエスは、建築工事のたとえを語っておられます。「……塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」(ルカ14:28)。もう一つのたとえは、戦争した場合の勝算を熟考する王ですが、論点は同じです。つまり、イエスに従うコストを考慮しなさいという意味です。キリストは、「一緒についてきた」「大勢の群衆」(25節)に、ご自分を真面目に信じて従うには、代償が伴うことを示唆されたのです。
イエスが幸せを下さるというだけの理由でついて行くなら、「どこにもたどり着かない道」と同じです。しかし、日々、罪と自己中心の誘惑を振り払い、(27節が語るように)自分の十字架を背負って、主と主の御国のために生きるなら、全てが変わります。それはイエスの栄光のためにイエスに従うこと。代償はありますが、その価値は十分にあります。
あなたにとって、イエスを信じ従うことに伴う代償は何でしたか。主を本気で知り、従うことに最高の価値があるのはなぜですか。
救い主よ。何よりもまず、あなたのために生きられますように。あなたを知ること以上に素晴らしいことは何もないのですから。
エゼキエル書3-4 ; ヘブライ11:20-40
https://japanese-odb.org/PcP
Amy Boucher Pye
雅歌1:1-6
エルサレムのおとめたちよ わたしは黒いけれども愛らしい。雅歌1:5
ジュリーは、日課のデボーションで、御言葉を歌うことにしました。歌っていると、頭でも心でも、そのことを信じ、行うようになったと言います。彼女は、御言葉を声に出して歌うことで、自分の外見に対するコンプレックスに、神の真理の光が当てられることを望んでいました。
彼女は初めに、雅歌1章5節「エルサレムのおとめたちよ わたしは黒いけれども愛らしい」を歌いました。当時の農耕社会の文化では、日焼けした女性を美しいとは言いません。そのせいか、この一節を歌った時、不思議なことが起こりました。彼女は突然、理解したのです。「私は完璧じゃない。でも、神が『愛らしい』と言ってくださる」
雅歌は旧約聖書にある美しい詩で、知恵文学の一つです。御民に対する神の愛を伝える寓話(ぐうわ)だと解釈する人もいますが、夫婦愛を祝う詩だと考える人も多くいます。夫婦の献身の麗しさを目の当たりにすると、「わたしたちもあなたと共に喜び祝います。ぶどう酒にもまさるあなたの愛をたたえます」(4節)という「おとめたち」に誰もが共感します。
どちらの解釈をしたとしても、神はご自分の選ばれた民を大いに喜んでおられる、と断言できます。神は、旧約聖書の他の箇所でこうも言われました。「わたしの目にあなたは値高く、貴くわたしはあなたを愛し」ている(イザ43:4)。
旋律をつけ歌にする以外に、どんな新しい方法で御言葉を「食べる」ことができますか。神に愛されているという真理をどうやって実感しますか。
創造主よ、あなたの似姿に私を造り、愛していると言ってくださったお方よ。その事実を理性だけでなく心と体全体で理解して、人と語り合えるように助けてください。今月のトピック:神を礼拝するとは?
エゼキエル書1-2 ; ヘブライ11:1-19
https://japanese-odb.org/PcN
Winn Collier
哀歌3:22-33
「主こそわたしの受ける分」……わたしは主を待ち望む。哀歌3:24
内戦が勃発し招集令状が届いた時、その人は「故国や同胞を傷つけることに一切関わらない」と決意して出国しました。しかし、適切なビザを持っていなかったために、到着した国の空港で足止めされました。空港職員は、数カ月間、食べ物を差し入れました。彼は希望にすがりつき、ターミナルでのつらい生活、自作の編み物の画像をツイートし、それを何千人もがフォローしました。やがて、この人の苦境を知ったカナダのある町の人々が資金を集め、彼を亡命者としてカナダに入国させ、仕事と家を見つけてあげました。
哀歌はエレミヤの嘆きをつづっています。彼は、罪を犯したユダに対する神の懲らしめが終わる時を待ち望み、神を求め続けた預言者です。「主に望みをおき尋ね求める魂に主は幸いをお与えになる」(3:25)と語り、永遠の神は信頼に足るお方だと信じました。解決は期待薄、という困難に遭遇するときでも、神の民は希望を捨てません。神の懲らしめを甘受せざるを得ないときでも、「望みが見いだせるかもしれない」(29節)とすがることができます。聖書は「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」(26節)と語ります。神を知る人は、神から流れ出る希望を味わうことができます。
明確な答えや脱出の道がないときでも、過去に何度も助けてくださり、私たちに対する愛を証明された神の助けを待ちます。
あなたが神を待ち望んだのは、どんな状況の時でしたか。黙して待つのが難しいのはなぜでしょう。神はそこでどのようにあなたに出会われましたか。
神よ、あなたを待ち望めますように。そして、あなたの御心が私の人生に実現する時をも忍耐強く待つことができるように助けてください。
哀歌3-5 ; ヘブライ10:19-39
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Lisa M. Samra
オバデヤ書1:3-9、12-13
兄弟が不幸に見舞われる日に お前は眺めていてはならない。オバデヤ書1:12
ハワイ、マウイ島の観光地ラハイナを襲った2023年8月の山火事は、死亡者102名、損壊家屋2千棟以上という米国史上最悪ともいえる被害をもたらしました。何とか立ち上がろうともがく住民たちをさらに苦しめたのは、火事場泥棒や混乱に便乗して土地を狙う悪徳不動産業者の横行でした。
神のエドムに対する強いメッセージの背景は、人の災難に付け入って得をしようとする彼らの堕落した願望でした。神は、預言者オバデヤを通して、イスラエルの長年の敵エドム人(エゼ35:5)に裁きを宣告されました。なぜなら、彼らは地理的な優位性(オバ1:3)、富(6節)、他国との同盟(7節)、知識(8節)、軍事力(9節)を駆使して、弱い国を搾取したからです。また、イスラエルが捕囚の民になった時、エドムがあざけったことも叱責されました。彼らは同情するどころか、嬉々としてイスラエルに進軍し、人々の家を略奪したのです(12-13節)。
ラハイナの人たちは、卑劣な行為を目の当たりにしましたが、人々の親切も経験しました。島にあるいくつもの教会は、被災者支援に尽力し、宿泊場所や温かい食事、救援物資を提供しました。誰かが困っているとき、私たちにも同様の選択があります。機に乗じて得をしようと試みることもできます。あるいは、神が願われる行動をすることもできます。マウイ島の諸教会のように、惜しみない支援をささげることもできます。
人の弱みに付け込む誘惑に駆られたことはありますか。神の愛は、なぜ人に対する親切は責務だと思わせるのですか。
神よ、苦しむ人、傷ついた人を具体的な行動で支える親切心を与えてください。
哀歌1-2 ; ヘブライ10:1-18
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Adam R. Holz
Ⅰペトロ1:3-9、13
神は豊かな憐(あわ)れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え…… Ⅰペトロ1:3
子どもの頃、百貨店のクリスマスカタログをうっとり眺めて夢想にふけったものです。最近では、その手の画像はスマホに現れます。アルゴリズムが抽出した「夢」や「理想」を眺めて人々は時を過ごします。そういう行為を「ドリームスクロール」と呼ぶそうです。米国の平均的なスマホユーザーは、1日に2時間以上もドリームスクロールをするといいます。
一方、ペトロは次のように述べました。「神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、またあなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(Ⅰペト1:3-4)。彼は一時的な物欲と神の約束を比べました。神の恩寵(おんちょう)に希望を託すなら「満たし」を経験するという約束です。そして、そういう約束があるのだから「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(13節)と諭します。
実は、私もドリームスクロールします。ですから、神の約束という大きな希望だけを己の願望にする生き方を、徐々にでも習得できるようにと祈っています。
ドリームスクロールするとき、本当に求めているものは何だと思いますか。自分の心を捕らえているものは、何でしょう。
父よ、「あなたを幸せにしてあげる」という空約束が世間にあふれています。一方、あなたに対する希望は、真の約束です。どうか今日、そこに100%賭けることができますように。ドリームスクロールよりも満たされる驚くべきものが救い主の御名に込められています。
エレミヤ書51-52 ; ヘブライ9
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Tim Gustafson
ヨハネ20:18-20、30-31
弟子たちは、主を見て喜んだ。ヨハネ20:20
閃光(せんこう)記憶とは、感情的に強烈な出来事に関する鮮明な記憶を指します。まるでカメラのフラッシュがたかれた瞬間のように、その出来事の詳細が、鮮明に記憶されることから、この名前が付けられました。例えば、東日本大震災の発生時に「どこにいて何をしていたか」を詳細も含めて鮮明に覚えている人が多いのは、この現象の一例です。私の父にとっては、1941年初冬の日曜日、真珠湾攻撃を知って祖父が泣いていた光景です。父も含む息子たちが戦地に赴くことになりました。その時の父の記憶は、細かい部分まで非常に鮮明でした。
イエスの弟子たちの閃光記憶を想像してみてください。次々と目撃する奇跡、神の御子の逮捕と十字架刑という突然の大惨事。しかし、その後、主は復活されたのです。マグダラのマリアは、急いで弟子たちのもとに行き、「わたしは主を見ました」と告げました(ヨハ20:18)。一方、弟子たちはいまだ恐れて身を隠し、「イエスが来て真ん中に立」(19節)たれるまで、その知らせを信じませんでした(ルカ24:11)。ところがついに「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハ20:20)のです。
ヨハネはこう語ります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(31節)。これは、永遠に意義のある「閃光記憶」です。
あなたの閃光記憶は何ですか。自分にとって最大の信仰の決断とその意義についてあなたは、どのように説明しますか。
父よ、史上最大の出来事、あなたの御子の復活を感謝します。また、大小のさまざまな出来事の際、私と共にいてくださることも感謝します。
エレミヤ書50 ; ヘブライ8
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